「新自由主義NPO」を問う~NPOのミッション・ドリフト研究会 スピンオフ
予定していたNPOのミッション・ドリフト研究会が延期になったため、スピンオフが先週末に開催。忘れないうちにレポートを。
〈タイトル〉
初めから新自由主義NPO~「劣化の外」の思想とそのビジネス~
〈日時〉
5月8日(土)16時~ オンライン開催
〈講師〉
石井 正宏さん (NPO法人パノラマ代表)
小川 祐喜子さん(至誠館大学 東洋大学人間科学総合研究所)
田中 俊英さん(一般社団法人officeドーナツトーク代表)
「腐敗するNPO」の2種類の流れ
田中さんが最近考える「腐敗するNPO」の中には、「劣化するNPO」と「新自由主義のNPO」との2種類の流れがある。
「劣化するNPO」の特徴は、事業規模の拡大と共に団体のミッションがずれていくという共通点がある。例えば、立ち上げ時はミッションに忠実な引きこもり支援で始めていても、予算がつくようになってくると、経営者が事業規模の拡大の方に向いてしまい、ミッションよりも規模の拡大を優先してしまうことなどが挙げられる。
もう1つは「新自由主義のNPO」。新自由主義経済の中で生まれたNPOで、NPOの仮面を被っているが、実態としては真の当事者を見ようとしていない団体があるのではないかと最近思いついたという。きっかけは、先日SNSで炎上した西成区釜ヶ崎を訪れたライターのブログだったとのことで、今回はこの事例から、各々が感じた違和感について考える場となった。
"ソーシャルグッド"が隠すもの
このライターのブログは賛否両論あった。圧倒的に「いいね」の数が多かったようだが、批判も多くあった。ブログの内容は、経済的中流層の女性ライターが西成釜ヶ崎で路上生活をしている男性と出会い、その時のコミュニケーションを"デート"と言い、男性と自分との間にある格差から生まれるGAPを"かわいく"表現し、ここは素敵な体験ができる街だとPRする。
これだけでも衝撃的だが、炎上の原因となったのが、これが大阪市の「新今宮エリアブランド向上事業」のPR記事であったことだ。
それでも、社会問題に疎いライターが書いたのであればまだ救われるが、そのライターは大阪のNPO出身であったことが、さらに一層業界をざわつかせているようだ。おそらく、このライターも悪気はなかったのであろうと思うし、自分が路上生活者を差別をしているとも思っていないのだろう。田中さんは、ブログ内で以下のように指摘している。
ポイントは、「これは差別ではない」とおそらく確信しながら差別記事を書くことのできる感性が、このライター以外にもたくさん存在することだ。
私はここまで明確に感じ取ることはできなかったが、読んだ時に感じた漠然とした恐ろしさはここだったのだと、田中さんのブログを読んで気づかされた。
これまでの差別記事と異なる点は、差別の仕方があからさまではないということだ。"ソーシャルグッド"(ここでは社会問題をライトに見せる言葉の代表として使用)という衣をまとい、イメージアップのために社会問題の焦点をずらし(今回でいうと、路上生活者を生み出す社会構造と経済の問題には触れない)、"路上生活には陥らないイケてる私"が楽しくデートしてあげたことで、一般の人にも差別をなくして欲しいと呼びかける。ここに、このライターの差別が見えるのだ。
「新自由主義NPO」を問う
田中さんによると、「新自由主義NPO」の特徴としては、しんどい状況にいる人たちを丁寧に知り発信していくのではなく、支援団体(支援者)が予め持っているイメージを現場(当事者)に当てはめようとする傾向があるそうだ。石井さんは、引きこもり問題にも共通する点だとして、当事者を自分の都合のよいシングルストーリーを作り上げ落とし込んでいき、社会問題を単純化させていると指摘。今回のライターのブログで言えば、路上生活者の生き様は多様であるのに、ライターの彼女にとってPRするのに都合のよい路上生活者をつくりあげていると。当事者の他者性を潜在化させること、これは当事者にとってみたら、大きな暴力であろう。
tanakatosihide.hatenablog.com
では、なぜ「新自由主義NPO」はシングルストーリーをつくってしまうのか?誰にとって都合が良いことなのか?
石井さんは、当事者をシングルストーリー化した方が、寄付を集めやすかったり、物事が進みやすい点があると指摘。つまり、NPO(支援団体)にとってメリットが大きい部分があると。うしろめたさは感じないのだろうか。
また石井さんから、支援者が『悦に入らないこと』の重要性についての指摘もあった。
僕たちが支援している個室(相談室)の1対1って、誰もがそこでカリスマになれてしまうし、カルト的な状況をつくれる。でも、そこの『悦に入らない』っていうことを、どうストイックに自分たちに課せれるかっていうことを、ずっと訓練し続けてきてるんだと思う。そこの『悦に入らない(ゾーンに入らない)』ことは法人の中の境界線みたいなもので、それを超えてる支援者がいれば注意をしてこちらに戻すことをしていくのだけれど、あの個室のカリスマ的なものが外に出始めてしまっていて、その人たちが物を書き始めているみたいな感じなのかもしれない。「それはダメだ」と首根っこつかまえ、境界線から戻す代表がいないのかもしれない。(パノラマ石井さん)
「NPOと広報」という視点からも興味深いご指摘。これは、どこかの回で深堀りしたいくらい重要な指摘だと考える。
「良い」「悪い」の分断
今回のブログは賛否両論あり、新自由主義に対しても、なぜ「良い」「悪い」の分断が起きてしまっているのかと小川先生が問題提起をし、それに対し石井さんは評価の仕組み・お金の流れの問題を指摘する。
新自由主義では"短期間で見えやすい成果"が評価され、そこ(NPO)にお金が集まっていく。一方、より複雑な状況の当事者を地道に支援しているNPOは"長期的で見えにくい成果"として評価が低くお金が集まらず根絶やしにされていく流れがもう15年以上も続いている。後者の人たちが、ちゃんと報われる仕組みを作っていかないと、どうしても分断になっていくのではないか。(パノラマ石井さん)※若干まとめています
これに対し、田中さんは、後者に光が当たらないのはメディアの問題もあり、分断にはメディアも大きく影響していると補足。
新自由主義NPOで活躍する人々
新自由主義経済の中で生まれたNPOは真の当事者を見ていないと冒頭に書いたが、では、どういった人々が新自由主義NPOで活躍しているのか。石井さんが、村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」から、ある一文を読み上げた。
でもそこには社会に対する君の個人的な復讐という意味合いもあるかもしれない。
また、以前田中さんが書いた記事も紹介する。
すべては、団塊ジュニア世代としてはヒルズ族たちのように主流にはなれなかったけれども、21世紀の最大テーマのひとつである「ソーシャル的課題/持続可能な開発的課題」に関しては、ヒルズよりオレたちのほうが勝っていると示したい欲望の表れのように僕には映る。
資本主義のメインストリーム(ビジネスエリート)に行けなかった人々が、NPOという場を借りて社会を見返そうとしていないかという指摘である。これが事実であれば、個人的復讐をNPOという公的支援をしている立場(行政からの委託含む)でしてしまっているという大きな問題がある。
仕様書の外にあるものを足していくには
最後に、NPOは行政の仕様書通りにやればいいのか?という議論。言い換えると、仕様書の外側にあるものは無駄なのか?それとも重要なものなのか?
例えば、地域若者サポートステーションの受託においては、厚労省から出された仕様書の通りにきっちりやることがNPOの役割なのか。
石井さんは、この仕様書の外側にこそ支援のし甲斐があり、仕様書に書ききれなかったものを足していくという運動がNPOの発展であるという。一方、新自由主義NPOは、職員の仕事をつくるために仕事ををとってきていて、"何をするか"はあまり関係なくなりつつあると。後者の方たちからすると、仕様書の外の仕事は無駄な仕事となる。ここに大きなGAPを感じる。
この仕様書の外にあるものを足していくというアクションは、本来「仕様書のバージョンアップ」として評価されるものであると思うが、実現するには、行政サイドにもNPOの現場の想いを代弁し、予算を取るために上と闘ってくれる気概のある方が必要だ。うまくいっていた時代はそういう関係もあったようだが、担当者の定期的な異動もあり、なかなか情熱を継続させるのは難しいようだ。担当者問題はCSR界隈でもよく出てくる話だが、担当者が変われば温度が変わるのは当然のことであるので、行政とNPOでつくる中長期的な戦略が必要なのだ。
※当日の動画は、以下からご覧いただけます。
石井さん到着!の写真。左から小川先生、石井さん、田中さん 。