傍楽 - Kaori's Blog

「働く」とは「傍(近くにいる人)」が「楽(らく)」になること。日々の仕事を通じて社会に貢献する、社会事業家・活動家から感じたことを綴っていきます。

横浜松縁会の勉強会に講師として参加させていただきました!

横浜松縁会の勉強会に講師として参加させていただきました。

横浜での会だったので、今回はNPO法人パノラマの広報として参加させていただき、前半は世界の社会問題と企業の取り組み(CSR/SDGs)、後半は日本の貧困問題に絞り、その中で貧困の連鎖を断ち切る「予防支援」をしているパノラマの取り組みについてお話させていただきました。

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 ご参加者の中には、ご家族が田奈高校の卒業生であったり、ご実家が田奈高校のご近所の方もいらっしゃったのですが、今の田奈高校の取り組みのことはご存知なく、高校の変化というのは、なかなか(子育てと距離がある)地域住民の方には伝わるきっかけがないのだなと思う一方、田奈高校とパノラマの事例から、「高校は変わることができる」というみなさんからの期待は感じることができ、やはり訴え続ける必要があるのだと思いました。

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"通訳"では充分でなく、なぜ"日本語教育"が必要なのか

先週はEDAS主催 第26回外国人政策勉強会で、講師は神吉宇一さん(武蔵野大学准教授、日本語教育学会副会長)、テーマは「外国人との共生時代に不可欠な日本語教育の現状と課題」でした。

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日本語教育は"承認と"自己実現"に必要

外国人との共生時代に、なぜ日本語教育が不可欠なのでしょうか。通訳との違いはなんなのでしょうか。それは、

『外国人が日本で暮らしながら"承認と自己実現"を果たすために必要であるから』

また、この"承認と自己実現"は

『ここで暮らしていると幸せになれるという実感ももたらす』

というお話は、普通に考えれば当然であることなのにその視点を持っていなかった自分への気づきがありました。

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"働く母"は歓迎されるのに、"高校生マザーズ"が排除されるのはなぜか。

日本の10代妊娠・出産に対する対応は遅れていると言われていて、妊娠後に伴う退学の多さ(退学するように誘導される)や、社会全体の生命倫理観の欠如に田中さんは言及されてます。(下記記事参照)

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 働く女性は守られる(働き続けられる)ようになってきたけれど、「高校生マザーズ」は学ぶこと(教育)からも働くこと(就労)からも遠ざかりやすい。
また、働く女性が妊娠したら祝福されるけれど、高校生が妊娠するとその「命の誕生」そのものが尊重されない傾向にあるのは何故かと考えたときに生命倫理観の欠如という言葉はキツイけれど、そうしか言いようがないようにも思う。

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「看取り」とは何か ~「アミターバ」を読んで

先日、日本の多死社会に備えて「看取り士」という方々がいることを知りました。
そんなニーズがあるのかと思いましたが、先日の哲学カフェでも「親を看取るとは何か?」というテーマ候補があり、そもそも「看取る」とは何なのでしょうか。「死を経験した当事者の気持ちなんて聞きようがないから、何をしたらいいのかわからない」というのが大半の人の気持ちだと思いますが、そんな時この本「アミターバ無量光明(玄侑宗久 著)」を思い出し、週末に読み返しました。

本書は、臨済宗福聚寺住職で芥川賞作家の著者が、臨死体験記録や自身の宗教体験を基に描いたものですが、死を目の前にした当事者の視点から書いた小説であり、「人が弱り亡くなる」ということを優しく追体験できる、とても印象に残っている良書です。

ストーリーは、80歳を前に肝臓がんで入院した「私」が、病気が進行するにつれて意識が混濁する中で経験する不思議な現象(幻覚、過去へのタイムスリップ、夢と現実の錯綜等など)が描かれています。「私」は特定の宗教には入っていませんが、その不思議な現象を素直に驚き、義理の息子である陽気な和尚の慈雲に問いかけます。この慈雲との、たわいもない雑談の中にある宗教的・哲学的対話がとても良いのです。
「私」は慈雲と"死"について話し合うようになり、死を前向きに受け入れられるようになっていきます。

看取る人からすると、夢と現実の錯綜などの不思議な現象は可哀想な時間にみえるかもしれませんが、本書の中では、自分の人生を旅する必要な時間であり、どちらかというと幸せな時間として描かれているように思います。自分が子どものとき、子どもが小さかったときなど、過去の自分に会いにいくという、人生の中で唯一タイムスリップができる時なのかもしれません。

個人的には、向こうの世界に向かっているラスト3ページがとても好きです。
アミターバの光に包まれた旅立ちは私たちが想像できない安らぎに満ちている、これは本だからこそ表現出来る世界観だと感じました。

本書のおかげで、「看取る」ということを、少しだけ考えられたように思います。


多死社会:
高齢化社会の次に訪れるであろうと想定されている社会の形態であり、人口の大部分を占めている高齢者が平均寿命などといった死亡する可能性の高い年齢に達すると共に死亡していき人口が減少していくであろうという時期。(Wikipedia

 

アミターバ 無量光明

アミターバ 無量光明

 

 

''何もしない''ということが''働く''ということになるか~哲学カフェより

昨日は哲学カフェでした。

カフェのテーマは「働くとはどういうことか」。「働く」ということは、現代社会においては、あくまでも仕事として生活から切り離されているというのが現実としてあるのだけれど、昔は生活の一部としてあったもので、これから私たちは「働く」ということをどう定義していくのか、ということを考えさせられました。

面白い視点としては「''何もしない''ということが''働く''ということになるか」という問いです。(例として「レンタル何もしない人」がとりあげられました)。これは、私が当日のテーマとして提案した「支援しない支援」ともつながります。

ここでご紹介したいのが、働き方研究家 西村佳哲さんの著書「わたしのはたらき」です。西村さんは「はたらき」という言葉を使われており、この認識にとても共感しました。

わたしたちには、一人ひとりに、その人が持っている''はたらき''があるように思います。

それは職能や肩書依然のもので、持ち味と言えなくもないけれど、もっと力に近い。本人がいることで周囲が受ける影響、ごく自然に生まれる作用があると思う。(「わたしのはたらき」西村佳哲) 

私たちが一般的に使う「働く」には、「貨幣価値を生む職業スキル」がベースにあり、このスキルが高い人が価値があるとみられがちです。しかしこれだと、「家事や家族介護は働くとは言えないのか」「重度の障害者は?」「認知症の高齢者は?」という疑問がでてきます。

本書は、職業スキル以前の人間としての「はたらき」を存分に発揮されている人9名の方へのインタビューが掲載されているのですが、印象に残っているのは、森のイスキアの佐藤初女さんでした。森のイスキアとは、生きていく力が萎えてしまった人を旅人として受け入れ、手数を惜しまずにつくった食事を一緒に食べて、語り合い、眠り、また食べる中で本人が再び力を取り戻していくことを支える場。そんな働きを90歳を超えても続けていた佐藤初女さん。(2016年にお亡くなりになったそうです)

初女さんもまた、ご自身から質問や助言はせず、話し出すのをじっと待たれるそうです。森のイスキアの利用者は自分自身で答を見つけて、元気になって帰っていくのだそうです。

こういう話を聞くと、「癒し」という言葉が連想されますが、初女さんは人を癒すという言葉が一番嫌いだと言います。イスキアを癒しの場と呼ばないでほしいと。

人を癒すなんてできないと思う。癒すんでなくて、私の生活がその人にどう映るか。自分の行動にその人が何を感じるか。「言葉を超えた行動が魂に響く」という言葉を、私は使っている。(「わたしのはたらき」西村佳哲) 

「自分の行動にその人が何を感じるか」が、はたらきの大きなポイントなのかもしれません。

本書に登場する方は、みな自分の働き方への強い自信と信念を感じます。

一方、「レンタル何もしない人」は、どちからというと、過去自分が受けたハラスメントなどの傷から「いやな仕事はしたくない」というところから生まれた活動のようで、彼自身の生きづらさを強く感じます。でも、だからこそ、西村さんの本に出てくる方々とは違う「はたらき」があり、それが今の都会で生きている人からのニーズがあるというのが、大変興味深い点だと思いました。

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【EDAS勉強会】外国人向け多言語サービスについて~情報を保証するという視点

少し前になりますが、EDAS勉強会テーマは「外国人向け多言語サービスの概要と課題」についてで、講師は、ランゲージワンの高橋さんでした。

 

外国人向け多言語サービスとは

外国人が日本で暮らす中で、言語の壁から、様々なコミュニケーションの問題が発生しします。(生活、就労、観光など)

このコミュニケーションの問題の中でも、特に健康問題や法的問題など緊急性やデリケートな要素を含む場合は、母国語でのサポートが求められます。このサポートをするのが、外国人向け多言語サービス。言い換えると、日本に在留する外国人と日本人の間に発生する課題を、外国人側の母国語をベースに解決(解決支援)するものと言えます。ポイントは、外国人のためだけでなく、日本人のためのサービスでもあるという点ですね。この認識がない方は結構いらっしゃるんじゃないでしょうか。

 

多言語サービスは主に以下二つで構成されています

① 国や自治体など公的機関により提供されるもの

② 民間企業により商業ベースで提供されるもの

 

①については、公的機関の職員自身が行うものと、機関からの委託により企業やNPO、個人の専門家(アウトソーサー)が行うものなどがありますが、公的機関が提供する場合、原資が税金になることを意識する必要があります。

同時に、通訳者の質の問題が存在しますが、質の高い通訳者の人手不足は避けられないので、分野にもよりますが、自動翻訳などリアルな人間の力に頼らないサービスの拡充も重要になるというご指摘でした。

「外国人向け多言語サービスに、どのような範囲と水準でサービスを揃えるか?」日本で暮らす外国人に対しての、我々の向かい合い方が問われます。

 

多言語サービスの種類

多言語サービスには大きく分けて、「インバウンド訪日客向け」と「中長期在留者・永住者向け」サービスとがあります。

<インバウンド訪日客向け多言語サービス>

  • 標識や公共交通機関の案内板の多言語表示
  • 多言語メニュー(ARアプリ含む)
  • コンシェルジェアプリ

  • 宿泊施設向け多言語コールセンターサービス
    (宿泊施設の従業員が、外国人旅行者との接客時において外国語による意思疎通が困難な場合に、 コールセンターのオペレーターが通訳をおこなう)
  • 旅行者向け多言語コールセンターサービス
    (観光・交通案内等を行う24時間対応の外国人旅行者向け多言語コールセンター)

 

<中長期在留者・永住者向け多言語サービス>

  • 消防119番コールセンター
  • 医療通訳コールセンター
  • 外国人在留総合インフォメーションセンター
  • 法テラス通訳コールセンター
  • ハローワークコールセンター
  • 年金相談コールセンター
  • 都道府県警本部コールセンター

これらは、中長期在留者・永住者向けなので、原則としては日本語で対応するべきものであると思われますが、医療、生活、就労など、人権にかかわる分野が多い印象があります。医療は命に関わる問題でありますし、法テラスは経済的に厳しい層が抱える問題のサポートになることが多いと推測されます。つまり、ここが(少なくとも、119番、医療、法テラスなど)機能していなかったら、極端ではあるかもしれませんが、人権問題に発展してしまう可能性もあると感じます。 

 

情報を保証するという視点

勉強会の参加者の方から、法律で多言語サービス(対象者の母国語で情報提供をする)を義務化することはできないのだろうかという意見がありました。

アメリカでは、「情報保証」という視点から、州の予算で医療通訳をもっているところがあり、外国人が来た時には母国語で情報提供することが義務付けられているそうです。医療機関側も、医療過誤などから自分たちを守るためにも積極的だといいます。

情報弱者に対し情報を保証するという視点は、外国人支援に限らず、様々な支援の中で重要だと思っています(行政の申請主義など)。ただ、これが言語化されて議論されるというシーンに出会ったのは初めてだったので、個人的に新しい発見でした。

 

では、日本はどうでしょうか。
日本政府の「多文化共生予算 総合的対応策関連予算」では、医療通訳の予算が、昨年度の1.6億円に対し今年度は10倍の17億円が確保されたそうです。

これは、日本政府が外国人とのコミュニケーションにおける様々な問題の中で、医療の問題が一番重要だという認識を持ったことがあらわれていると高橋さんは指摘します。

日本は、やっと動き出したという感じですね。

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多文化共生予算 総合的対応策関連予算

※「生活サービス環境の改善等」の25億円中17億円が医療通訳の予算
http://www.moj.go.jp/content/001280353.pdf 最終ページより) 

 

 

多言語コールセンター業界

 日本の多言語サービスというのは、もともとは民間企業のビジネスとして始まっておりますが、2012年に初めて行政による多言語サービスとして、119番の多言語コールセンターが始まりました。この背景には、新しい在留管理制度が同年にスタートしたことがあるようです。

参加者の方から「アジア圏は多言語だが、通訳の対象となる言語はどのように決まるのか」という質問がありましたが、行政の多言語センターも民間業者に委託することが多いので、やはり、これはマーケットニーズがあるか否かのようです。ある程度の人数がないとニーズとして上がってこないですし、ニーズがなければお金を出すところもないのでサービス化は難しいということでした。

そうなると、上述の法律で多言語サービス(対象者の母国語で情報提供をする)を義務化するというのは、運用の実態としてはどうなっているのか気になります。

 

多言語コールセンターの市場規模は、20~30億と推測されており、今後100億円程度に拡大すると予想されています。日本国内には中小企業を中心に約20社ほどありますが、ほとんどが民間の営利企業です。

一部異質なのがNPO法人国際活動市民中心(CINGA、シンガ)

ここは、NPO法人として、国や自治体等からの委託事業を実施したり、法務省の「多文化共生総合相談ワンストップセンター」事業などを担当されているそうです。

最近では、外国人受入れの増加に伴い、大手のコールセンター企業も多言語コールセンターへ参入が相次いでおりますが、採算性の面から(政府の予算規模、調達手続きの煩雑、収益性)、大手はインバウンド訪日客向けサービス志向に、中小企業は多言語コールセンター事業を起点に受入関連サービスに転換されることが予想されるということでした。

 

ちょっと長くなってしまいましたが、とてもわかりやすく勉強になりました!高橋さんありがとうございました!

 

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EDAS勉強会の様子。講師のランゲージワン高橋さん

 

 

 

 

 

 

企業化するNPO2 「当事者隠ぺいと既成価値の強化」に参加

4月20日東洋大学で開催された、一般社団法人officeドーナツトーク田中さん主催の「企業化するNPO2 当事者隠ぺいと既成価値の強化」に参加した。昨年の「劣化する支援」に続いての会。一見わかりにくいこのテーマは、特定団体を批判するためにやっているわけではなく、衰弱している(であろう)NPO業界が抱えている問題を広げていき、一般化していくことで、様々な立場の人に通用するような「問い」をつくっていくことだという説明が冒頭にあった。

今は、NPO業界の関係者が本音で議論するフェーズにあるのだと思う。しかし、実際はそのような場がほとんど無いことが「良き問い」が出てこない問題の根本にあるのかもしれない。

NPOの企業化とは?

NPOが企業化するとはどういうことなのか。何が問題なのかという点について、田中さんよりご説明があった。田中さんはNPOの企業化を新自由主義に基づいたNPOとして表現していた。 

 新自由主義(しんじゆうしゅぎ、英:neoliberalism、ネオリベラリズム)とは、 国家による福祉・公共サービスの縮小(小さな政府、民営化)と、大幅な規制緩和市場原理主義の重 視を特徴とする経済思想。

 資本移動を自由化するグローバル資本主義新自由主義を一国のみならず世界まで広げた ものと言ってよい。

 国家による富の再分配を主張する自由主義(英:liberalism、リベラリズム)や社会民主 主義(英:Democratic Socialism)と対立する。

     出典:日本総研 経営コラム「新自由主義」

緊縮財政と民営化の「小さな政府」は、子ども若者支援の現場では、NPOを行政の下請け業者的な位置づけにしてしまい、NPOへの各事業の丸投げが目立ってきているそうだ。(ここには、行政職員の約1/3の給与で働くNPO職員がいる)

では、新自由主義が支援業界に混ざることが何故問題なのかというと、サバルタン(真の当事者)」が生み出されることだと、田中さんは指摘する。

例えば、虐待を受けて育った子ども・若者、高齢の引きこもりなども、いまある支援サービスの網ではなかなか救えない人々がいて、それが、若干数ではなく、数十万~200万人単位で存在すると推測されているそうだ。

たとえば、以下のような支援サービスがある。これらは、行政の委託事業や財団からの支援金で運営されているが、共通する問題は、行政や財団が素人的組織に委託することで、サバルタン(真の当事者)を見落としてしまう(見落としてしまったことにも気づかない)ことだと言う。

・100万~200万人単位いるひきこもりの人々の数%しか支援できない引きこもり支援サービス

・学校内に「居場所」を設置したが、虐待支援等の知識がない「校内居場所カフェ」

貧困層の多くにニーズがないにもかかわらず学習クーポンを配布したり勉強を教える「学習支援」

また、見落としてしまう背景には、サバルタン(真の当事者)たちが新自由主義者(支援者)が醸し出す雰囲気を嫌い、支援者たちが気づかないうちに離れていくということもあるようだ。

例えば、引きこもりの人が、やっとの思い(5~6年悩んでやっと来れる人も少なくないそう)でサポステ(若者サポートステーション)などに就労相談に行ったとしても、そこにいたのはバリバリ・テキパキ系キャリアカウンセラーだった場合、「あ、この人自分には無理・・」と1~2回の面談で去っていってしまうことは、私にも想像できる。(この支援者はもちろん真面目に仕事をされている。営利企業のサービスとしてのキャリアカウンセラーだったら問題ないが、引きこもりの人を支援するという点において、スキルが不足している)。この支援者も来なくなった相談者のことは気になるが、サポステのルール上追いかけることはむつかしいし、相談者は次から次へと来るので次第に忘れていく。

結果的に、こういった支援者たちについていける人だけが、その団体にとっての当事者となり、サバルタン(真の当事者)が生み出されていく。これが若干名ではなく、かなりのボリュームとしてあることが問題であり、今話題の8050問題は、ここでこぼれおちた方々なのだろうとも推測できる。

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また、東洋大学の小川祐喜子先生(東洋大学人間科学総合研究所客員研究員、非常勤講師)は、引きこもりなどの当事者ではなく支援者の研究をされているとのことで、「人は他者との関係によって変わる」という前提から、引きこもりの若者が変わるというのは支援者の影響が大きいので、支援者のスキルが良くないものだったらどうなるのかというのと、それら(支援の質の低下)を作り出す構造についてみていく必要があると指摘されていた。NPO団体という構造化されたものがあり、そこでの支援が当たり前になっているのであれば、サポステに来た若者がすぐに来なくなってしまうというのは、NPOの理念自体が新自由主義に向かっている傾向にあるのではないかという見解であった。

なぜ、NPOが企業化するのか

なぜ、NPOが企業化しているのか。そこには、NPOが食べていけない(生計が立たない)職種であるという問題が根っこにあるのではないかという指摘があり、経営者が職員を食べさせていくために「企業化(目先の行政にぶらさがっている委託事業をとりにいく、ミッションにはない新規事業を始める等)」しているのではないかという視点で、会場での議論が始まった。

数年前から「NPOでも食べてようになった」という声も一部であるが、NPOで食べていけるのは20代か、一部の才能ある創業者であり、一般職員が家庭を持って生活をしていくのはなかなか厳しいことも、もっとしっかり伝えるべきだという結論になった。

また、行政からの委託事業に携わる人の場合は雇用形態も有期雇用契約となる場合が多いそうだ。20代だったらなんとかやっていけるが、30代になり将来設計を考えるようになったときに社協などに転職するというパターンは、あるある話のようだ。

また、NPOの収入源は「寄付」「行政からの委託費用」「助成金」「事業収益」であるが、「事業収益」は対象者が利用料金を支払える中流階級以上の場合になるので(ホームレスや貧困、虐待当事者からは利用料金を支払ってもらうことは難しい)、ここもまたNPOが企業化している要因の一つであると思う。

NPOへの理解と敬意が足りていない?

将来設計を考えるのであればNPOでは30代以降は食べていけないという結論になり、田中さんから「NPOはボランティアでいい。食べていける職種である必要はないのではないか。」という話があったけれど、NPOが高い専門性をもったプロ&地域の他セクターとの協業体制構築が出来るようにするには、本業をほかにもっているボランティアでは厳しいのではと思う。NPO支援者は高い専門性があると思うが、それは本当にボランティアで出来るのか、とか。

ある参加者の方がおっしゃっていた「(NPOは)専門性と敬意をもってみられない」という言葉も、個人的に心に残った。NPOは職業としての専門性も高いし、社会を変えるための仕事をしていて、本来はもっと敬意をもって見られる職種ではないかと思うのだが、日本ではボランティアという印象が強いせいか職業スキルがちゃんと評価されていないように思う。

NPOの企業化の要因のひとつには、こういった社会からの見られ方も影響しているのではと感じた。

まだまだ議論は続きそうだ。

左から、田中さん、根本さん、小川先生