NHKディレクター鈴木伸元氏による加害者家族へのインタビュー。
加害者家族を被害者の一人として捉えるという考え方は日本にはあまり無いように思う。しかしながら、日本の殺人事件の4割は家族殺人である。その場合、家族は被害者家族でもあり、加害者家族でもあるが、被害者家族のネットワークからは排除される。
身内の犯罪を未然に防ぐには限度があり、自分が加害者家族(身内)になったら?他人事ではない話である。
NHKディレクター鈴木伸元氏による加害者家族へのインタビュー。
加害者家族を被害者の一人として捉えるという考え方は日本にはあまり無いように思う。しかしながら、日本の殺人事件の4割は家族殺人である。その場合、家族は被害者家族でもあり、加害者家族でもあるが、被害者家族のネットワークからは排除される。
身内の犯罪を未然に防ぐには限度があり、自分が加害者家族(身内)になったら?他人事ではない話である。
メンヘラ系ネットアイドルである著者の南条あやが、高校3年で自死するまでホームページに掲載していた公開日記(1998年~)の一部を掲載した本。
彼女は父子家庭で育ち、本書も父親によって書籍化される。当時はメンヘラやネットアイドルという言葉は当然なかった時代だ。南条あやは、インターネット黎明期に新しいポジションを開拓していった1人である。
著者は小学生からいじめに遭い、自殺したいほど悩んでいるとわかってもらえれば、まわりも同情してくれるのではとリストカットをする。それが、その後繰り返されるリストカット・自殺未遂につながっていく。
日記からは、大量の薬への依存など状況の深刻さが窺えるが、文章はメンヘラ系ネットアイドル的な、明るくかわいく(という表現が適切ではないかもしれないが)書かれており、それが痛々しく感じる。
「自分で自分を抱っこできない彼女が自分で自分にしてあげられる最後のことが、それ以上の破滅から自分を救うためのクスリや自傷だったのかもしれません」(精神科医 かやま・りか)
社会学者 見田宗介氏が、1969年に19歳の少年N・Nが起こした連続射殺事件(永山事件)に材を取り、1973年に発表した社会学的論考。
タイトルの「まなざしの地獄」とは、人を出身階層で差別する都市の社会構造を指す。
まなざしとは、他者によって規定される「私」である
本書の特筆すべき点は、筆者である見田氏が、故郷の貧困から希望を求め逃げるように上京したN・N(そして、N・Nに代表される、金の卵と呼ばれた中卒の若者たち)が、都市の他者から注がれる「まなざしの地獄」から必死に逃げようとする、彼らの切実なる欲望を読みとっている点である。
N・Nの人格は、都会のまなざし(服装、持ち物、学歴、出生などの表層的な属性。N・Nの場合は、出生による差別が一番大きかった)に影響されていき、それが彼の希望<上京に託した夢=自己解放・新しく生きなおすこと>を打ち砕き、人生を狂わせていく。
ーまなざしとは、他者によって規定される「私」である―
筆者は、都会が歓迎するのは「尽きなく存在しようとする自由な若者」ではなく「新鮮な労働力」にすぎないと指摘する。ここに、若者が都会に要求することと、都会が若者に要求することとの大きな落差がある。そして、この落差は学歴で変わってくるのであろう(下積みの安価な労働力としてみられるか)。
そこに加えての道徳教育の圧力も彼らに追い打ちをかける。
これは、現代の若者の就労や非正規雇用の問題にも通じることではないかと考えさせられた。
N・Nは、一見「理由もなく、あるいは、ささいなことで」会社を辞める。しかし、筆者は、「この<理由のなさ>のうちにこそ理由はあるのではないか」と問う。
―都会における彼らのその時々の生活の、必然性の意識の希薄、存在の偶然性の感覚、関係の不確実性、社会的アイデンティティの不安定、要するに【社会的存在感の希薄】を暗示する―
同時に、周りの大人たちは、ただ不可解な理由なき理由しか見出さない。
「流入青少年実態調査報告書」(東京都,1963)から、東京都に流入した青少年の不満を調査した結果の分析がある。「東京都で就職して不満足な点」という問いに対して、「友人がいなくてさみしい」「異性の友達が得られない」という関係性への不満回答よりも、「落ち着ける室がない」「自由時間がない」という回答が2-3倍も多かったので
ある。筆者は、この調査結果をみて、
彼らはある種の強いられた関係から逃れようとしながら、ある種の関係を欲求している。重要なことは、彼らの日常の意識のうちで、「関係欲」以上に、「関係嫌悪」の方が、広汎に感覚されているという事実であろう。
と分析している。N・Nは貧困家庭に生まれたという事実よりも、N・Nの現在そして未来にまで入り込む、執拗にさしむける他者のまなざしに苦しめられていた。その罪の重さを考えさせられる。
貧困の本質的な問題とは何か
N・Nの人生の最初の躓きとなった「貧困」の本質的な問題とは何だろうか。筆者は、以下のように述べる
―貧困とはたんに生活の物質的な水準の問題ではない。それはそれぞれの具体的な社会の中で、人びとの誇りを挫き未来を解体し、「考える精神」を奪い、生活のスタイルのすみずみを「貧乏くさく」刻印し、人と人との関係を解体し去り、感情を枯渇せしめて、人の存在そのものを一つの欠如として指定する、そのような情況の総体性である―
―夢に託してN・Nが語ろうとしたのは、貧困とは貧困以上のものであること、それは経済的カテゴリーであるより以上に、社会的存在論のカテゴリーであること、貧しさが人間を殺すということ、このこの無念ではなかっただろうか―
サードプレイス(居場所)がなぜ必要か
N・Nが欲していたのは、現代の「サードプレイス」なのかもしれない。最も逃げたかった存在は、彼らを偏見をもった目で覗き込み、分類し、レッテルを貼る他者。それにより、N・Nたちは、本来とは違う別の存在に仕立て上げられる。そのまなざしの地獄からの避難場所となるサードプレイス(居場所)を求めていたのではないだろうか。
NPO法人パノラマの石井代表は、困難を抱えた若者のために高校内居場所カフェなどのサードプレイスを提供している。石井代表は、サードプレイスの重要な要素として、「役割のシャッフル」があると話す。私は、この役割のシャッフルとは、見田氏の主張である、まなざしによって他者に規定される「私」から解放される、ということと同じであると解釈した。
また、元引きこもり当事者で、現在は引きこもりの若者の相談支援をおこなっている、ヒューマン・スタジオ代表の丸山康彦氏も、まなざしから解放されるサードプレイスは、傷ついた(あるいはエネルギーを削がれた)心の回復に重要なものであると訴えていた。
関係を渇望している、一方、偏見のまなざしへの強い拒否感を持っているのは、若者だけではなく、全世代に共通する問題だと思う。そこに入り込めるサードプレイス提供の担い手になっていきたいと思う内容であった。
先日話題になった熊本市の緒方市議が、市議会本会議に乳児を連れて出席しようとしたが、認められなかったというニュース。
緒方市議のこの行動の趣旨は、仕事と子育ての両立を「自己責任」として扱われる職場や社会に対して問題提起をしたかったとのこと。また、これまでも議会事務局に対して様々な相談・提案をおこなってきたが、全てNOだったという経緯があったといいます。
2016年11月、議会事務局に妊娠報告をした折に、「妊娠中や産後も、議員活動を続けていきますので、サポートお願いします」と伝え、たとえば議場に赤ちゃんを連れて行くことや、託児所の設置などを求めたんです。
「自分のため」という風に言ったわけではありません。傍聴者や来訪者、ほかの議員、さらには控え室のスタッフなどが使えるような棟内託児所の要望でした。
しかし、全部NOだった。そのため、ベビーシッター代の補助制度などはどうか、と求めていきましたが、無理でした。
出産前に無理して議員活動をしていたこともあり、出産後は体を壊し、しばらく歩けないようになった。7ヶ月ほどお休みをいただいたのですが、12月議会から復帰したいと思い、議会事務局と再びやりとりをしました。
その際、事務局側の対応は「議員さんは控え室もあるので、個人でベビーシッターを手配して見ていてもらいたい」というものだった。
「個人的な問題」であるようにされたことに対し、私は疑問を感じたとともに、これこそまさに、「厳しさ」だと痛感したのです。そうして今回の行動に至りました。
社会学者の上野千鶴子氏の言葉をお借りすると、緒方市議の今回の子連れ議会は、きっとこのような心境だったのではないでしょうか。
「ルールを守れ、と叫ぶのは、ルールに従うことで利益を得る人たちである。女たちはルールを無視して横紙破りをやるほかに、自分の言い分を通すことができなかった」
この事件がきっかけで、子連れ出勤の是非や、職場の寛容性をめぐる議論が起きました。驚いたのは、緒方市議が代弁したかった育児中の女性からの批判も少なくないということです。
「議員ならシッター代を払え」
「会社に子供連れてくなんてただの非常識」
などの意見があるようですが、前述の緒方氏の置かれている背景と問題意識(育児と仕事の両立が自己責任・ルールを破ることでしか訴える術がなかった)を知れば、理解できるのではないかと思います。
私は子育てをしたことがないが、子育て中の人が子ども預けられなくやむを得ず子どもを職場に連れてくることに対しては、職場は寛容にならないといけないと考えます。
■仕事は仕事、育児は育児
30年前に「アグネス論争」というものがあったそうです。
タレントのアグネス・チャンさんが、母乳育児を続けたいなどの理由から、講演やテレビの収録現場に1歳の子どもを連れて行ったことについて、その賛否について論争が起きたのだといいます。
当時は、仕事と結婚すら両立しない中、仕事と育児の両立を目指すというのは、周りからの理解を得るのに相当苦労されたのだろうと推測します。
この記事で興味深かったのは、当時同じような状況であった恵泉女学園大学学長の大日向雅美教授の意見です。子どもを預けて働くことへの批判から専業主婦の母親たちには協力を頼めなかった中、毎日子どもを預かってくれる人を探すことに奔走されていたとのこと。
そんな大変な状況の中でも、大日向さんは職場に子どもを連れていくことは避けていたといいます。その理由は二つ。
①「仕事は仕事、育児は育児」として分けるべき
仕事と育児は分けるべきだという意見です。子連れ出勤は、仕事をしながら育児の負担まで抱えることになりますし、子連れで出来る仕事は限られています。また、対価をもらう真剣勝負の職場に小さな子どもがいては、本領発揮できないことが多いと思われます。
②「子どもは母親のそばにいたほうがいい」という前提を疑ってみる
母親を育児に縛り付ける3歳児神話と闘ってきた(闘っている)女性たちがいます。私が母親だったら、やはりこの神話と闘ったと思います。
また、仕事はキャリアのためだけでなく、家庭(子育て)から前向きに離れられる場でもありますから、良い気分転換にもなり、結果的に子どもに優しくできるのではないかと思います。介護にも同様のことが言えますよね。小さな子どもとずっと一緒にいるのは幸せなことだと思いますが、反面大きなストレスもあると聞いてます。また、子どもにとっても職場は制限が多く、ストレスが多いのではないでしょうか。
待機児童問題のゴールは、母親が子連れで働けることではなく、安心して育児を任せられる環境をつくること。でも、本当にどうしようもない時は子連れ出勤も受け入れようとする職場の寛容性が必要なんだと思います。
前回の続き。
これまでの話から
「正しい関係と気持ち良い関係は異なる」
ということがわかる。
熊谷氏は、【正しい関係】については議論されつくしてきたが、【気持ち良い】関係については、ほとんど議論さ れていないと話す。
正しい関係は、時に暴力的な関係にもなる。
気持ち良い関係を探ることは、暴力から遠ざかる。
という熊谷氏の言葉。
育児や介護に関連する暴力の問題を考えてみても、日本の家族(制度)は血縁の絆が強く、家族には「気持ち良い関係」よりも「正しい関係」を強く求める傾向があるように感じる。ここでいう正しい関係の中には、家族によるケア(介助)も含まれる。
しかしながら、ケアされる子どもや障害者、高齢者は家族を選ぶことはできないし 、逃げることもできない。そうであるならば、気持ち良い関係を築けない家族であったら、もっと簡単に家族は解散しても良いものではない だろうか。
私は、この時代に家族は不要と言いたいのではなく、家族、あるいは家族にかわるものは絶対的に必要であると思っている。ただし、それは、無償無私の愛で繋がることが一番大切なことであるとすれば、今の家族制度に疑問を持つことも必要だと考える。
前回の続き
「家族」という言葉を聞いて、「家族団欒」などをイメージする人もいれば、「修羅場」「地獄」など心が凍りつく人もいる。
障害をもつ人にとって、家族は後者となる場合もあり、家族からの介助の延長線は暴力につながりやすいと聞いた。つまり、介助を受ける側にとっては、常に暴力の影に怯える日々を過ごすことになるのだろう。
熊谷氏はパートナーとは籍を入れていないそうだ。その理由は「ヘルパーが利用しにくくなるから」だという。
日本では、結婚した途端、女性への家庭内での役割の期待値が過度に上がる。介助においても、パートナーに過度な期待値がかかり、周りの目を気にして、ヘルパーを利用することが難しくなる。
パートナーに介助をしてもらうということは、対等な関係からずれていくことでもあると、熊谷氏は話す。(介助する側が精神を病んでしまうということもある)
これは、育児や介護の問題にも絡んでくるが、女性の育児・介護の負担はとても大きく、この負担を大きくしているものは、結婚制度や家族制度から出来た慣習なのではないだろうか。(育児や介護を外部に頼ることで、良き母親や良き妻でないとされる)
だったら、その制度に敢えて入らないというのも、必然の選択かもしれない。制度の外で話し合って決めることができる。
家族を家族が介助するということは、介助する側もされる側も大変なことだ。関係性も一気に崩れる可能性がある。
だから、血縁による家族という括りを壊し、外へ解放していくということも必要だ。
一方、 我が国の政策は、社会保障費の削減から、介助を家族に戻そうとしている風潮がある。
先日参加した、「日本財団ソーシャルイノベーションフォーラム2017」で、「障害者と性」(身体障害が中心)とい うプログラムがあった。
このプログラムの中で、もっとも印象的だったのは登壇者の一人であった、小児科医で、脳性まひの当事者でもある熊谷晋一郎氏からの 「ロマンチック・ラブ・イデオロギーというバイアス(偏見)」についての反論であった。
■ロマンチック・ラブ・イデオロギーとは
「ロマンチック・ラブ・イデオロギー」とは、結婚の動機として恋愛を据えるという考え方のことであるが、「恋愛・セクシャリティ・結婚の三位一体の制度」とも言われているようだ。
特に若い女性や恋愛機会の多い人に支持されてきており、日本においても、男女の恋愛が皆の共通体験 となり、男女の恋愛結婚が「マジョリティの共通体験」となった。そして、これが無意識 の「同調圧力」となり、一部の人を苦しめている。その一部の人の中に、障害をもつ人も含まれる。
■当たり前に疑問を持ってみる
本ブログでは、これが悪いあるいは間違った価値観だということを言いたいのではない。実際に幸せになっている人も多いのも事実である。しかしながら、ここを敢えて疑ってみることで見えてくるものがあり、違う価値観を持った人への理解につながる。
本来、恋愛、セクシャリティ、結婚は全て別の問題であるが、しばしばひとつの問題として議論される。また、これらは健常者を前提にした制度や慣習であり、障害という制限がある立場で考える・議論する場はあまり用意されてこなかった。
しかしながら、障害をもつ人の立場で考えてみると、必ずしも、結婚は恋愛の延長線上にあるものではなく、セクシャリティも恋愛の延長線上にあるものではない、ということに気づく。(もちろん、そうである人もいる)
また、結婚という制度に恋愛は必須ではないことにも、改めて気づかされる。