傍楽 - Kaori's Blog

「働く」とは「傍(近くにいる人)」が「楽(らく)」になること。日々の仕事を通じて社会に貢献する、社会事業家・活動家から感じたことを綴っていきます。

運命の人(山崎 豊子)~西山事件からみるジャーナリズム精神の衰退

山崎豊子「運命の人」(ドラマ)を久々に見た。2015年に書いたブログを思い出し、リライトしました。

強まる報道規制と表現の自由

日本の表現の自由度は、もともとマスコミの行き過ぎた表現の自由にも寛大さを示してきた。それは戦争時の言論弾圧による苦い経験を教訓に、特に軍事に関する秘密を少なくし、なるべくチェックできる体制にしてきたという日本特有の歴史がある。

それが80年代に入り、冤罪事件が次々に出てきたり、人権侵害や俗悪番組が社会問題化するという世論のマスコミ批判をバックに、報道規制が強まってきた。

また、名誉毀損に対する高額賠償化、著名人や有力者に対して高額の損害賠償を認める判決が相次いで出されたことも、メディアやジャーナリストの権力批判に対して及び腰にさせるリスクを孕んでいる。(日本のジャーナリズムは高額賠償には耐えられない)

 

社会の有力者の名誉のみが手厚く保護されるようになるならば、メディアの権力批判・追求を萎縮させてしまう。 また日本のジャーナリズムは軍事に弱く、権力監視という時代の要請に対応しきれていない。取材アクセスが難しくなるばかりの軍事問題、安全保障関連情報に、どう「知る権利」を実現するか。

 

西山事件からみる「ジャーナリズム精神の衰退」

西山事件とは、ドラマ「運命の人」にもなった、毎日新聞西山記者が、1972年の沖縄返還に関する日米間の秘密合意を暴露した事件であるが、情報源の外務省職員をそそのかして国家の秘密を漏洩させたとして国家公務員法違反で逮捕され有罪となった。(国の秘密事項を取材報道したとして、記者が逮捕され、有罪判決を受けたのは初めてでその後も無いそうだ)

 

この事件の核心は、「日本国民の税金を国会にも隠して米国のために差し出している」にも関わらず、「不倫問題」を演出することで、スキャンダル問題へと転換させたことである。

 

現在のジャーナリズム精神・気概の衰退の原因は、遡っていくと、西山記者に行きつくのかもしれない。