先日、日本の多死社会に備えて「看取り士」という方々がいることを知りました。
そんなニーズがあるのかと思いましたが、先日の哲学カフェでも「親を看取るとは何か?」というテーマ候補があり、そもそも「看取る」とは何なのでしょうか。「死を経験した当事者の気持ちなんて聞きようがないから、何をしたらいいのかわからない」というのが大半の人の気持ちだと思いますが、そんな時この本「アミターバ無量光明(玄侑宗久 著)」を思い出し、週末に読み返しました。
本書は、臨済宗福聚寺住職で芥川賞作家の著者が、臨死体験記録や自身の宗教体験を基に描いたものですが、死を目の前にした当事者の視点から書いた小説であり、「人が弱り亡くなる」ということを優しく追体験できる、とても印象に残っている良書です。
ストーリーは、80歳を前に肝臓がんで入院した「私」が、病気が進行するにつれて意識が混濁する中で経験する不思議な現象(幻覚、過去へのタイムスリップ、夢と現実の錯綜等など)が描かれています。「私」は特定の宗教には入っていませんが、その不思議な現象を素直に驚き、義理の息子である陽気な和尚の慈雲に問いかけます。この慈雲との、たわいもない雑談の中にある宗教的・哲学的対話がとても良いのです。
「私」は慈雲と"死"について話し合うようになり、死を前向きに受け入れられるようになっていきます。
看取る人からすると、夢と現実の錯綜などの不思議な現象は可哀想な時間にみえるかもしれませんが、本書の中では、自分の人生を旅する必要な時間であり、どちらかというと幸せな時間として描かれているように思います。自分が子どものとき、子どもが小さかったときなど、過去の自分に会いにいくという、人生の中で唯一タイムスリップができる時なのかもしれません。
個人的には、向こうの世界に向かっているラスト3ページがとても好きです。
アミターバの光に包まれた旅立ちは私たちが想像できない安らぎに満ちている、これは本だからこそ表現出来る世界観だと感じました。
本書のおかげで、「看取る」ということを、少しだけ考えられたように思います。
多死社会:
高齢化社会の次に訪れるであろうと想定されている社会の形態であり、人口の大部分を占めている高齢者が平均寿命などといった死亡する可能性の高い年齢に達すると共に死亡していき人口が減少していくであろうという時期。(Wikipedia)