昨日は哲学カフェでした。
カフェのテーマは「働くとはどういうことか」。「働く」ということは、現代社会においては、あくまでも仕事として生活から切り離されているというのが現実としてあるのだけれど、昔は生活の一部としてあったもので、これから私たちは「働く」ということをどう定義していくのか、ということを考えさせられました。
面白い視点としては「''何もしない''ということが''働く''ということになるか」という問いです。(例として「レンタル何もしない人」がとりあげられました)。これは、私が当日のテーマとして提案した「支援しない支援」ともつながります。
ここでご紹介したいのが、働き方研究家 西村佳哲さんの著書「わたしのはたらき」です。西村さんは「はたらき」という言葉を使われており、この認識にとても共感しました。
わたしたちには、一人ひとりに、その人が持っている''はたらき''があるように思います。
それは職能や肩書依然のもので、持ち味と言えなくもないけれど、もっと力に近い。本人がいることで周囲が受ける影響、ごく自然に生まれる作用があると思う。(「わたしのはたらき」西村佳哲)
私たちが一般的に使う「働く」には、「貨幣価値を生む職業スキル」がベースにあり、このスキルが高い人が価値があるとみられがちです。しかしこれだと、「家事や家族介護は働くとは言えないのか」「重度の障害者は?」「認知症の高齢者は?」という疑問がでてきます。
本書は、職業スキル以前の人間としての「はたらき」を存分に発揮されている人9名の方へのインタビューが掲載されているのですが、印象に残っているのは、森のイスキアの佐藤初女さんでした。森のイスキアとは、生きていく力が萎えてしまった人を旅人として受け入れ、手数を惜しまずにつくった食事を一緒に食べて、語り合い、眠り、また食べる中で本人が再び力を取り戻していくことを支える場。そんな働きを90歳を超えても続けていた佐藤初女さん。(2016年にお亡くなりになったそうです)
初女さんもまた、ご自身から質問や助言はせず、話し出すのをじっと待たれるそうです。森のイスキアの利用者は自分自身で答を見つけて、元気になって帰っていくのだそうです。
こういう話を聞くと、「癒し」という言葉が連想されますが、初女さんは人を癒すという言葉が一番嫌いだと言います。イスキアを癒しの場と呼ばないでほしいと。
人を癒すなんてできないと思う。癒すんでなくて、私の生活がその人にどう映るか。自分の行動にその人が何を感じるか。「言葉を超えた行動が魂に響く」という言葉を、私は使っている。(「わたしのはたらき」西村佳哲)
「自分の行動にその人が何を感じるか」が、はたらきの大きなポイントなのかもしれません。
本書に登場する方は、みな自分の働き方への強い自信と信念を感じます。
一方、「レンタル何もしない人」は、どちからというと、過去自分が受けたハラスメントなどの傷から「いやな仕事はしたくない」というところから生まれた活動のようで、彼自身の生きづらさを強く感じます。でも、だからこそ、西村さんの本に出てくる方々とは違う「はたらき」があり、それが今の都会で生きている人からのニーズがあるというのが、大変興味深い点だと思いました。