傍楽:来栖香のブログ

「働く」とは「傍(近くにいる人)」が「楽(らく)」になること。日々の仕事を通じて社会に貢献する、社会起業家の働き方や生き方を研究中。このブログでは、社会課題をビジネスの力で解決するソーシャル・ビジネス、非営利組織の経営、CSRなどについての気づきを共有していきたいと思います。

「生産性」の発言について思うこと。

 

人間と向き合う時に使うのは不適切な言葉

杉田議員の「生産性が無い」という発言を聞いて、なんだかな~と思っていた時に、丁度茂木健一郎さんのブログを目にしました。

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茂木さんが指摘されているように、「生産性」という言葉を人間と向き合う時に使うのは不適切だと思います。

「「生産性」というのは、ある文脈の中で定義される。そして、世の中にはたくさんの文脈があり、それをあらかじめ尽くすことはできない。だから、ある人間に向き合うときに、特定の文脈の「生産性」でその人を評価するのは、ごく控えめに言っても部分的な切り取りに過ぎない。トリビアルな誤謬である」

「人を、その存在自体が尊いとして、特定の「生産性」で切り取ったり評価したりしないというのは当たり前の話で、なぜならば人間存在をすべて尽くせる文脈などないからだ」

一億総活躍の名のもと叫ばれている、高齢者、障害者、外国人、女性の活躍も、その真の目的は「経済効果(生産性)」であり「多様性の尊重」ではないと、私はこれまでも言ってきました。今回の杉田議員の発言は、それが露呈したのではないでしょうか。

 

社会的インパクト評価から考える「生産性」

 少し話しは脱線しますが、この「生産性」の議論への違和感は、今回の問題だけでなく、ソーシャルセクターの現場での成果指標や社会的インパクト評価での議論を聞いていても、同じことを感じることがあります。

貧困問題に取り組んでいる某団体の代表の方が、昨今注目されている社会課題解決の取り組みの成果(社会的インパクト評価など)は、【人間の生きる時間を無視している】と強く指摘されていたことがとても印象に残っています。例えば、

 

「20年ひきこもっていた人が、何かをきっかけに、長い時間はかかったけれど、社会参加をするようになった。」

「これまで毎日死ぬことを願っていた人が、何かをきっかけに、生きてみてもいいかなと思うようになる。」

 

これは極端な例かもしれませんが、この奇跡のような変化を、経済に貢献していないといって、生産性が無いといえるのでしょうか

多くの人がいろいろな貢献をすることで、文明はつくられる。みんな相互依存していて、パス回しをしている。だから、特定の人の「生産性」を云々すること自体が愚かな態度だ。みんな支え合って、貢献しあっている

 

彼らの(私たちの)「きっかけ」が訪れるタイミングは、その人の生きる時間によって異なります。そのタイミングをKPIという言葉で測ることには抵抗があります。(もちろん、ものさしを作る努力は必要です)

問題解決そのものをKPIを使った指標で測ろうとすると、処遇の支援に徹してしまい、相談そのもの(存在の支援)が見えなくなってくるという代表の方の意見には賛同します。

例えば、ホームレス問題でいうと、「人はいつか変わる(いいホームレス)」と「人は変わらなくても生きる(悪いホームレス)」という分断を生んでしまうそうです。

 

 人権とは

彼ら(私たち)の「生きる時間」を尊重することが、人権意識(無条件に存在そのものを肯定)なのではないでしょうか。そして、今劣化していると言われる支援の現場に必要なことの一つなのではないかと感じました。(部外者が言うのはためらわれますが、敢えて書かせていただきます)

ここをどう評価するか、ということを社会的インパクト評価でも議論して欲しいと思います。

政治家が反知性主義に走るのは洋の東西を問わず、最悪の意味でのポピュリズムである。確かに、ベスト・アンド・ブライテストの叡智は、必ずしも票を集めるとは限らない。それでも、生産性についての稚拙な議論は、政治的に害があることはもちろん、その論理的脆弱性において、恥ずべきことだろう。