傍楽 - Kaori's Blog

「働く」とは「傍(近くにいる人)」が「楽(らく)」になること。日々の仕事を通じて社会に貢献する、社会事業家・活動家から感じたことを綴っていきます。

【読書ノート】まなざしの地獄  尽きなく生きることの社会学<見田宗介>

社会学者 見田宗介氏が、1969年に19歳の少年N・Nが起こした連続射殺事件(永山事件)に材を取り、1973年に発表した社会学的論考。

タイトルの「まなざしの地獄」とは、人を出身階層で差別する都市の社会構造を指す。

 

まなざしの地獄

まなざしの地獄

 

 

 

まなざしとは、他者によって規定される「私」である

本書の特筆すべき点は、筆者である見田氏が、故郷の貧困から希望を求め逃げるように上京したN・N(そして、N・Nに代表される、金の卵と呼ばれた中卒の若者たち)が、都市の他者から注がれる「まなざしの地獄」から必死に逃げようとする、彼らの切実なる欲望を読みとっている点である。

N・Nの人格は、都会のまなざし(服装、持ち物、学歴、出生などの表層的な属性。N・Nの場合は、出生による差別が一番大きかった)に影響されていき、それが彼の希望<上京に託した夢=自己解放・新しく生きなおすこと>を打ち砕き、人生を狂わせていく。

ーまなざしとは、他者によって規定される「私」である―

 

筆者は、都会が歓迎するのは「尽きなく存在しようとする自由な若者」ではなく「新鮮な労働力」にすぎないと指摘する。ここに、若者が都会に要求することと、都会が若者に要求することとの大きな落差がある。そして、この落差は学歴で変わってくるのであろう(下積みの安価な労働力としてみられるか)。
そこに加えての道徳教育の圧力も彼らに追い打ちをかける。
これは、現代の若者の就労や非正規雇用の問題にも通じることではないかと考えさせられた。

 

N・Nは、一見「理由もなく、あるいは、ささいなことで」会社を辞める。しかし、筆者は、「この<理由のなさ>のうちにこそ理由はあるのではないか」と問う。

―都会における彼らのその時々の生活の、必然性の意識の希薄、存在の偶然性の感覚、関係の不確実性、社会的アイデンティティの不安定、要するに【社会的存在感の希薄】を暗示する―

同時に、周りの大人たちは、ただ不可解な理由なき理由しか見出さない。

 

「流入青少年実態調査報告書」(東京都,1963)から、東京都に流入した青少年の不満を調査した結果の分析がある。「東京都で就職して不満足な点」という問いに対して、「友人がいなくてさみしい」「異性の友達が得られない」という関係性への不満回答よりも、「落ち着ける室がない」「自由時間がない」という回答が2-3倍も多かったので

ある。筆者は、この調査結果をみて、

 

彼らはある種の強いられた関係から逃れようとしながら、ある種の関係を欲求している。重要なことは、彼らの日常の意識のうちで、「関係欲」以上に、「関係嫌悪」の方が、広汎に感覚されているという事実であろう。

 

と分析している。N・Nは貧困家庭に生まれたという事実よりも、N・Nの現在そして未来にまで入り込む、執拗にさしむける他者のまなざしに苦しめられていた。その罪の重さを考えさせられる。

 

 貧困の本質的な問題とは何か

N・Nの人生の最初の躓きとなった「貧困」の本質的な問題とは何だろうか。筆者は、以下のように述べる

―貧困とはたんに生活の物質的な水準の問題ではない。それはそれぞれの具体的な社会の中で、人びとの誇りを挫き未来を解体し、「考える精神」を奪い、生活のスタイルのすみずみを「貧乏くさく」刻印し、人と人との関係を解体し去り、感情を枯渇せしめて、人の存在そのものを一つの欠如として指定する、そのような情況の総体性である―

 

 ―夢に託してN・Nが語ろうとしたのは、貧困とは貧困以上のものであること、それは経済的カテゴリーであるより以上に、社会的存在論のカテゴリーであること、貧しさが人間を殺すということ、このこの無念ではなかっただろうか―

 

 サードプレイス(居場所)がなぜ必要か

N・Nが欲していたのは、現代の「サードプレイス」なのかもしれない。最も逃げたかった存在は、彼らを偏見をもった目で覗き込み、分類し、レッテルを貼る他者。それにより、N・Nたちは、本来とは違う別の存在に仕立て上げられる。そのまなざしの地獄からの避難場所となるサードプレイス(居場所)を求めていたのではないだろうか。

 

NPO法人パノラマの石井代表は、困難を抱えた若者のために高校内居場所カフェなどのサードプレイスを提供している。石井代表は、サードプレイスの重要な要素として、「役割のシャッフル」があると話す。私は、この役割のシャッフルとは、見田氏の主張である、まなざしによって他者に規定される「私」から解放される、ということと同じであると解釈した。

また、元引きこもり当事者で、現在は引きこもりの若者の相談支援をおこなっている、ヒューマン・スタジオ代表の丸山康彦氏も、まなざしから解放されるサードプレイスは、傷ついた(あるいはエネルギーを削がれた)心の回復に重要なものであると訴えていた。

 

関係を渇望している、一方、偏見のまなざしへの強い拒否感を持っているのは、若者だけではなく、全世代に共通する問題だと思う。そこに入り込めるサードプレイス提供の担い手になっていきたいと思う内容であった。