傍楽 - Kaori's Blog

「働く」とは「傍(近くにいる人)」が「楽(らく)」になること。日々の仕事を通じて社会に貢献する、社会事業家・活動家から感じたことを綴っていきます。

劣化する支援@東京に参加して考えたこと~代表理事の経営哲学が支援の質を左右する~

GW初日は、劣化する支援5@東京is burning!/批評の中間支援に参加。これは、一般社団法人officeドーナツトーク代表の田中さんが、以前より問題提起されているNPOの支援の劣化について議論する勉強会。田中さんのほかに、NPO法人パノラマ代表の石井さん、静岡県大・津冨宏先生がゲストでした。私は途中参加でしたが、その感想を書きたいと思います。

 

社会起業家やソーシャルビジネスに憧れる若者世代の登場 

 東日本大震災で、ソーシャルビジネスや社会起業家がヒーロー的存在になり、中流家庭出身の学生・若者が、有力な就職先のひとつとして、NPOなどのソーシャルセクターに就職することも珍しくなくなってきました。

しかしながら、当時は災害支援が多かったけれど、最近は日本の貧困問題に予算がつくようになったこともあり、子どもの貧困を中心に貧困がブームになり、他の分野で活動していたNPOが自社の事業活動を貧困問題にまで広げてくることが増えてきました。これが、支援が劣化してきた大きな要因であると認識しています。

 

「貧困コア層」と「おしゃれNPO」の絶対的な断絶

 「貧困コア層」(下流貧困層)は「おしゃれNPO」に属するような中流層の若者たちとは絶対的に距離を置くそうです。この断絶は、'ひねくれ'や'あまのじゃく'的な距離ではなく、【絶対的な断絶】だと、田中さんは指摘します。喧嘩して拒否するといった感情的なものではなく、関わること自体を拒否するそうです。そもそも「おしゃれNPO」の活動に関心が無く、「活動はどうぞお好きに、私には関係ないことだ」というスタンスで自衛している、というような状況だと認識しています。

この【絶対的な断絶】は、どこから生まれるのでしょう。それは、中流層の「おしゃれNPO」支援者の無邪気で明るい言葉に表れる『感受性の鈍さ』であり、その『感受性の鈍さ』は貧困コア層にとっては暴力であり、それが断絶を生んでいると田中さんは言います。

「努力すればいつかは報われる、いつかはつながれる。学習支援も受けていくと、いつかはそれなりの幸せが訪れる」

という無邪気な言葉の暴力が貧困コア層の若者を傷つけ、「ああ、この人たちには、自分たちは絶対的にわかっていない」と身をもって知り、一方「おしゃれNPO」支援者たちは、自分たちが拒否されていることにすら気づいていなく、そこから断絶が生まれていると田中さんは指摘します。

下流には下流なりの幸せがあり、一瞬の微笑みは毎日訪れる。けれどもその幸せや笑みは、決してミドルクラスのソーシャルな若者たちが無邪気に描くことのできる笑みではない。
それは、虐待サバイバーの笑みであり、相対的貧困のなかでの笑みなのだ。常にどこかで負い目や物足りなさや怒りや諦めを抱く(思春期的痛みではない)諦めの中の笑みだ。 

tanakatosihide.hatenablog.com

 

社会の変化に合わせて団体ミッションを変える時代
 貧困問題に代表されるように、社会問題は、ざっくり5年くらいの周期で変化していくと言われています。それは、NPO団体としてのミッションも時代にあわせて変化させていく必要があるということでもあります。時代に合わせてミッションを変えていくという柔軟性は大きい団体には難しく、つまり、大きい団体による貧困コア層への支援はむつかしいのではという議論がありました。ではどうしたら良いか?

小さく良質な組織を全国にたくさんつくり、プロジェクト別に個々に協業していく

というお話はなるほどと思いました。しかし、これを実現させるには、

イデア・発信力など代表理事の力量が問われます。小さい組織の代表理事を社会で育成していく必があるということです。

 

 代表理事の経営哲学が支援の質を左右する

 では、中流家庭以上で育った支援者は、貧困問題の現場で支援者として取り組むことは出来ないのかというと、そういうことでもないようです。現に、中流家庭出身の方が貧困コア層の学生が集まる学校の中で支援者として活躍されています。そこで私は、「おしゃれNPO」と「本来のNPO」の違いは、代表理事に経営哲学があるか否かではないだろうかと考えました。他の人もこうあるべきだというわけではなく、「自分の哲学」があるかどうか。それがないと、団体の方向性がぶれたり、何かがあったときに判断する軸(心の拠り所)がないため経営がぶれていく可能性があるのだと思います。


 最後に、勉強会終了後の懇親会では、支援者・元支援者の方もたくさんご参加されていて、色々お話をお聞きすることができました。彼・彼女らの愛憎まじる団体批判も、まさに上記のような哲学が無かったことに起因しているように感じました。個人的には、団体・業界にがっかりして辞めていった元支援者の方々の辛口コメントの中には、今もまだ団体・業界への「愛」があり、その「愛」が予想以上に大きかったことが印象に残っています。

 

 

【読書ノート】「男らしさ」の快楽―ポピュラー文化からみたその実態

ジェンダーが問題になってきている昨今、いわゆる「男らしさ」とは何かということを、問い直すべき時がきている。「男らしさ」には問題も多く、特に性の不平等を作り出してきたのは、ここにも大きな要因があると考えられている。

本書の特徴は、これまでは「男らしさ」に対してはフェミニズム、男性学を中心に批判の対象となってきたが、一方的に批判するだけでなくその肯定的な側面も捉え直している点である。 

「男らしさ」の快楽―ポピュラー文化からみたその実態

「男らしさ」の快楽―ポピュラー文化からみたその実態

 

 スポーツ、格闘技、音楽から性風俗まで、男性が担い手の多くを占めるポピュラー文化から、「男らしさ」と称される気質・期待・概念について、3人の専門家が見解を述べている。(3人とも子育て中の男性研究者である)

少し前から、草食系男子を筆頭とする「男らしくない男たち」(特徴として、①おしゃれ ②自分志向 ③貪欲ではないを挙げている)があらわれてきた。その背景にある男性かの生き方の変化も説明しながら、男性ももっと多様な生き方ができるべきだとしており、結果的には、これまでの概念としてある「男らしさ」を押し付けるわけでも完全に脱ぎ去るわけでもなく、【衣装のように着こなす】ことを一つの解決策として提示している。

それは「男らしさ」』を全否定して「鎧を脱ぐこと」を強いるのではなく、かといって全否定するのでもない、第三の道だ。メタルレベルから見直して、場面に応じて適切な「男らしさ」を取捨選択する道。「脱鎧論」ではなく、「男らしさ」を「衣装」のように着替えよ、と推奨する。

 

【読書ノート】『安楽死を遂げるまで』 (宮下洋一著)

ジャーナリスト宮下洋一氏による安楽死の現場への取材。著者は自ら死を選んだ遺族や関係者を訪ねてスイス、オランダ、ベルギー、米国などへ足を運び取材をおこなうが、中でも、スイスの自殺幇助団体「ライフサークル」代表・プライシック氏の影響を大きく受けている。帰国後、日本人にとっての安楽死として、ライフサークルの日本人会員を取材。そこからは「迷惑の文化」が深く根付いていることに気づかされる。

安楽死を遂げるまで

安楽死を遂げるまで

 

安楽死を望む人の特徴

欧米の安楽死を望む人の特徴としての「4W」

  • 白人 (アジア人と黒人は少ない)
  • 富裕層
  • 高学歴(人生を思い通り生きてきた会社の幹部が多い)
  • 心配性(将来の病や痛みを予期し心配する)
    ※このほかに、子どもがいない人が多い傾向もある。

彼らは自分の人生を最後まで、自分で決めたがる傾向にあるという。

 

一方、安楽死を希望する日本人の特徴は「まわりに迷惑をかけたくない」という「迷惑の文化」である。橋田壽賀子さんも著書「安楽死で死なせて下さい」にて、何度も以下の言葉を使っているそうだ。

人に迷惑をかける前に死にたいと思ったら、安楽死しかありません

著者が取材したライフサークル日本人会員は、発達障害の子どもを持つシングルマザーだった。彼女の母親はネグレクトで父親からも夫からもDVを受けていたことが影響しているとして、解離性障害と診断される。

興味深いのは、「自分が生きていては迷惑がかかる。毎日死にたいと思う」と思う彼女にとって、「安楽死」という選択肢ができたことが心の支えになり「もう少し生きてもいいと思う」ようになったということだ。

「安楽死が抑止力になる」。これは欧米での取材でも同様の言葉が、何度かあったことが印象的である。自殺未遂を繰り返す人に「死んではダメだ」と必死に言うのではなく、死ぬこともできるというオプションを切り捨てるべきではない、という見解を示す人もいた。

 

感想

私個人としては、自分の最後は自分で決めたいと思うし、「耐えられない痛み(肉艇的・精神的)」「回復の見込みがないこと」を条件として、安楽死の法制化議論も活発になってほしいと思う。

また、会員になる=死の準備できたという安心感、というのもなんとなくわかる。

しかしながら、「まわりに迷惑をかけたくない」「まわりの空気を患者が察してしまう」日本においては、欧米のように「自らの死を他人に頼らない」という個人の生き様と家族含めた自分の近くにいる人との対話を中心として決める「安楽死」の実現は、かなりハードルが高いと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

若者支援は10代にもっと投資すべき①~NPO法人パノラマの高校内居場所カフェ事業「ぴっかりカフェ」の事例から~

本日は、昭島市議会みらいネットワーク会派主催の「第8回まちづくりシンポジウム 地域がつくる中高生の居場所〜校内居場所カフェ」に参加してきました。今月は、子ども・若者のサードプレイスを考えることを目的とした校内居場所カフェのイベント3つ目です。じわじわ広がっているのがうれしいです。

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前半は、NPO法人パノラマ代表の石井さんによる基調講演として「地域がつくる中高生の居場所〜校内居場所カフェ」。後半は、西東京市主任児童員 西原 みどりさんによる西東京市立青嵐中学校「せいらんブックカフェ」の事例紹介です。

石井さんの単独の講演を聞いたのは久々でしたが、やっぱりお話が上手で引き込まれますね~。

 

福祉以上就労未満の若者たち

先ずは石井さんの講演から。石井さんは、支援している引きこもりの若者が置かれている状態のことを「福祉以上就労未満の若者たち」と表現されていました。「福祉」というのは障害者手帳をもつという選択や生活保護受給者となるということで、「就労」というのは一般企業への一般就職を指します。このどちらにも行くことが出来ない若者たちがいるということです。

 この図は、障害者手帳をもっていない発達障害者を想像するとわかりやすいと思います。「発達障害の特性をまわりが理解していないために、マルチタスクが求められる一般企業に就職してもうまくいかず辞めてしまうけれども、だからと言って障害者雇用枠で働きたくはない。どうしたらいいか」。何度も聞いた相談を思い出します。

福祉以上就労未満の若者の支援が手薄で、引きこもりの若者に発達障害が多いというのも納得です。この若者たちには社会に出る前から支援が必要で、彼らが実際に困るのは学校を卒業し社会に出てからが多いので、困った状態に陥る前(在学中)に支援・支援者とつなげる(=図の予防支援と政策)ことが、予防支援という点でとても重要なのだと思います。

 

10代は社会的投資効果の高い年代という仮説

 次に、若者の就労支援において、どの年代への支援が一番社会的投資効果が高いか、という大事な話。

 このグラフにある通り、サポステ(地域若者サポートステーション)への来所者は、27歳~30歳が一番多く、高校生・大学生の22歳までは人数が少なく、ここが問題だと石井さんは指摘します。

(地域若者サポートステーションとは、働くことに悩みを抱えている15歳~39歳まで(来年度より44歳まで)の若者の就労を支援する厚労省の機関です。実際には、引きこもり・若者支援のノウハウがあるNPO法人が受託し運営しています。)

石井さんは、これまでのご経験により、10代への支援は驚くような変化が生まれることがあるといいます。わかりやすい例えで、27~30歳の引きこもりの若者は「くすぐっても笑わないし、おだてても喜ばない」が、10代の若者は「くすぐったら笑うし、おだてたらとっても喜ぶ」という違い。石井さんの一言で不登校だった子が通学するようになったり、第三者の言葉を前向きに捉える純粋さや精神的な力があるのだと思います。

しかしながら、社会に出て27~30歳になった時にはもう純粋さや力は削がれてしまっていることも多いそうです。だから、この年代で出逢ったのでは遅いこともあるかもしれないし、ここから回復させていくには、時間・当事者・支援者の負担も大きいのだと思いました。しかしながら、現状はこの層に一番投資をしている。ここを見切るのではなく、もっと若い世代に注力する必要があるのではないかという考えに賛同します。

社会的投資効果については、もっと深堀りできたらいいなと思いました。

 

生まれた家で、ある程度の人生が決まってしまうという現実

 NPO法人パノラマが神奈川県立田奈高校で運営しているのが「ぴっかりカフェ」ですが、田奈高校は入試の際には試験も内申もない公立高校で、不登校生でも入りやすい高校であることが特徴です。

tsusinsei-guide.net

そのため、貧困、虐待、障害など困難を抱えた生徒が多く、課題集中校とも呼ばれています。

田奈高校は相対的貧困の状態にある学生やひとり親家庭の学生が多いようです。石井さんのおっしゃるように、田奈高校に通っている学生は、経済格差の象徴だと思います。

 【「相対的貧困」とは】

所得の中央値の半分を下回っていることです。少し古いですが、平成27年度の日本の所得の中央値が245万円なので、122.5万円以下で生活している人を指すことになります。月収でいうと約10.2万円です。これに当てはまる人が日本だと15.6%、6人~7人に1人となります。

 

【絶対的貧困と相対的貧困】

貧困には「絶対的貧困」と「相対的貧困」二種類の定義があります。

<絶対的貧困>

生命を維持するために最低限必要な衣食住が満ち足りていない状態のことを指し、飢餓状況にある貧困、路上生活者などになるかと思います。

<相対的貧困>

地域社会において「普通」とされる生活を享受することができない状態のことを言います。「貧困」の基準が、その人が生きている国、地域、時代等によって、変化することが「絶対的貧困」との一番の違いです。日本の高校生で言えば、修学旅行に行けない、部活費用のお金がなく辞める、1日1食しか食事がとれない、などです。

 

貧困=経済的資本がないと、なぜ夢や希望がもてなくなるのでしょうか。

それは、経済的資本がないと、文化的資本(修学旅行、飛行機に乗ったことがある、ディズニーランドにいったことがある)がなくなります。文化的資本がないと人脈という社会関係資本がなくなり、孤立しがちになります。その結果、自尊心を育めず夢や希望を持ちにくくなるといい、これが格差の問題なのだと思いました。

 

 

これまでの個別相談では何故ダメなのか

一般的におこなわれている「個別相談」では何故ダメなのでしょうか。それは、個別相談とは、自分が困っていると認識している(課題が顕在化している)ことが前提だからだと石井さんは言います。

しかしながら、貧困や虐待などが日常化している子どもにしてみれば、今の状態が普通だと思っているわけで、自分が困っている人間だという自覚はない(課題が潜在化)子どもも多いということです。

また、極端な話ですが、学校で良い子でいれば、家庭で何があっても学校側が気づくことは難しいということもあります。

 校内居場所カフェは、カフェを通じて自然と先生以外の大人と信頼関係を築くことで、日々の言動から「貧困」「虐待」「障害(発達障害等)」などの兆候を察知し、自然な形で支援に結び付けることが可能になります。

 

人生の「フック」を増やす

 では、「自分が困った状況あるいは困った状況になりやすい」ということを認識していない若者への支援とは、どうあるべきなのでしょうか。

石井さんは、「文化資本というフック」を増やしてあげることが支援だといいます。

 文化的な人というのは、上記写真の図のようなフックを、たくさん持っている人だと言います。多くのフックをもっている人は、ちょっとした立ち話でもハイコンテクストで人と盛り上がることができます。ぴっかりカフェには、このフックを持った富裕層・ノブレス・オブリージュがボランティアとしてたくさん参加しており、彼らとの触れ合いから、学生たちはこのフックを増やしていくことができます。それは、とても重要なことかと思いました。

 

若者の心に矢を射ることができる第三者

田奈高校の学生や引きこもりの若者は、親と教師以外の大人とはほとんど知らないそうです。田奈高校に限らなく、多くの若者はそうかもしれません。

 

石井さんは、子ども・若者支援には三本の矢を射る人がいると言います。

 

1本目は「うるさいな~」と思う親

2本目は「うざいな~」と思う教師

3本目は【心に刺さる矢】を射ることができる第三者

 

3本目の矢を射ることができるのは、おそらく若者たちにとって自分を評価しない大人だと思います。親でも教師でもない大人。校内居場所カフェで出逢う大人は、彼らを評価せず、そのままを見ようとしてくれます。だから、親や教師が言ってきかないことも、第三者が言うと素直に聞いてくれたりする。そういう出逢いを増やすことが支援者の役割だというお話はとても共感しました。

 

 今日は改めて勉強になりました。校内居場所カフェを広めるには、やはり、背景や運営者の思い、成果を丁寧に説明する必要があると感じました。簡単な説明だと「カフェ」が先走りして軽く見られちゃったりするんですよね。パネルディスカッションも必要だけど、石井さんの単独講演ももっと増やして欲しいと思いました(*^_^*)

困難を抱えた若者のサードプレイス~西成高校にモーニングカフェがある意味~

今月7日は、大阪の一般社団法人officeドーナツトーク代表の田中俊英さんが地元立川で講演されるとのことで、職場からダッシュで駆け付けました。主催は立川青年会議所で、テーマは「大人も子供も繋がる場所~サードプレイスについて考えよう~」です。

※officeドーナツトークの田中さん

 

子どもにとってのサードプレイスとは

ファーストプレイス「家庭」
セカンドプレイス「職場(大人)」「授業(子ども)」
サードプレイス「自宅や職場とは隔離された、心地のよい第3の居場所」

サードプレイスとは、子どもにとっても、大人ににとっても「自分らしさを取り戻せる場所」のことを指します。

大人のサードプレイスについては良く議論されていますが、子ども、特に中高生など多感な年齢の若者のサードプレイスについての議論や実践報告についてまだまだ少ないのではないかと思います。

 

 officeドーナツトーク運営「となりカフェ」やNPO法人パノラマ運営「ぴっかりカフェ」などの高校内居場所カフェは、困難を抱えた高校生のためのサードプレイスになっています。

田中さんが2012年に始めた大阪府立西成高校での「となりカフェ」が日本で初めての取り組みで、そこから全国に広がっており、今では、大阪10校、神奈川9校、宮城、北海道にも広がっているそうです。 

 

<こちらは、これまで私が訪問した高校内居場所カフェ>

blog.canpan.info

 

blog.canpan.info

 

これまでの高校内居場所カフェは放課後や休憩時間の開催でしたが、西成高校では、これまでの「となりカフェ」に加え、授業一限目が始まる前に立ち寄れる「モーニングとなりカフェ」を始めたそうです。

 

大阪府立西成高校って、どんな高校?

「モーニングとなりカフェ」の前に、2012年に西成高校で「となりカフェ」を始めることになった経緯ですが、西成高校は担任の先生が二人も配置されており、それだけ困難を抱えた学生(貧困家庭・非行・不登校・障害(発達障害含む))が多い学校です。

さらに、今困難を抱えていなくても、その予備軍となる層がある程度いて、その予防支援として外部のリソース(officeドーナツトーク)に高校が頼ったという経緯があるということでした。子どもたちが本当に困った状態に陥る前に支援に繋げたい。でも、学校のリソースだけでは出来ないから外部と連携する、というのは外部を学校内に入れることを嫌がる傾向にある学校側の取り組みとしては画期的だと思いました。

「子どもの貧困問題は先生だけでは解決できない。大人の貧困によって、最も弱い立場である子ども・若者が皺寄せを受けている。居場所(ファースト、セカンドプレイス)を失った若者のために、高校内居場所カフェ(サードプレイス)を始めた」(田中さん)

 

 「モーニングとなりカフェ」を始めた理由

西成高校内にある「モーニングとなりカフェ」は、7:45にオープンし、コーヒーやトーストを無料で提供しています。スタッフが近所の商店街で焼きたてパンを購入し、コーヒーもインスタントではなく、挽きたてのコーヒー豆からおいしいコーヒーを入れます。BGMも朝らしいさわやかな曲を流すそうです。

faavo.jp

モーニングとなりカフェの初日には、17名も学生が来たそうです。

私は、高校生が朝ご飯を食べないということ自体は珍しくないであろうし、朝ぎりぎりに起きたい高校生にとって、無料だからといって、そんなニーズは本当にあるのだろうか?と思いましたが、田中さんのお話をお聞きして、モーニングカフェの本当の意義がわかりました。

 

西成高校に通う子どもは大変なバックボーン(貧困、虐待、軽度の障害など)を背負っていることが多く、 朝ごはんやお弁当をつくってもらえないこともよくあるそうです。夕飯ですら食べられないこともある状況で、だからといって、親がお金をくれるわけでもな く、結果的に「自分たちで何とかしろ」となるケースが少なくないといいます。

 

田中さんのお話によると、経済的下流層のシングルマザーは18~19才で母親になることも珍しくなく、子どもが高校生になっても30代後半という若さに加え、自身も貧困・虐待の被害者であったりすることから、彼女たちも自分自身の孤独に悩んでおり、そのため、自分の孤独を埋めることが優先され、恋人などに会うために子どもの食事も用意せずを遊びにいってしまうこ とがあるそうです。

 

おそらく、母親も子どもへの愛情ないから食事を用意しないのではないと思います。でも、子どもには「食事はなんとかしてね」と言って遊びにいってしまったりする。田中さんは「やんわりした虐待」(経済的虐待、ネグレクト)と表現されていましたが、虐待というよりかは、その無責任さが生まれる背景が問題に思えました。やんわりした虐待をなくすには親への支援が必要だと思いますが、それを待っている時間はなく、となりカフェのように社会がサポートする必要があるのだろうと思います。

 

彼女らはその孤独を埋めるため、再婚を繰り返し、そのため、子どもたちの父親がそれぞれ違う、ということ もあるそうです。

モーニングとなりカフェに来る高校生の中には、幼い義理のきょうだいがいて、自分はご飯を我慢して妹弟にあげて学校にくる子もいるそうです。

(親の無責任さへの)悔しさ、でも親のことを愛しているという感情、空腹、孤独感、幼いきょうだいへの思いなど、いろいろな感情のうずまきをもって一晩を過ごし、朝を迎えている(田中さん)

このもやもやした気持ちをもったまま授業に出たくないという気持ちを、カフェで解消している。モーニングとなりカフェには、そんなもやもやをぶつけても聞いてくれる大人がいる。学生たちは空腹にも関わらず、カフェではぎりぎりまでスタッフとしゃべって、授業開始数分前にトーストを急いで食べて授業に向かうといいます。このような大人をハイティーンは求めていると。

''朝からぼんやりコーヒーを飲むその姿を見ていると、教室という「セカンドプレイス」に臨む前のひと時 を過ごす時間が、生徒さんたちには必要なのだと僕は実感した''(田中さん)

 

「子ども食堂」に真の貧困当事者は来ない
ここ数年話題の子どものサードプレイス「子ども食堂」ですが、ここには真の貧困当事者は来ない、と田中さんは主張します。個人的にも、子ども食堂は「アクセスの悪さ(精神的・物理的)」が課題かと思います。

 

第一に、そもそも真の貧困当事者は子ども食堂の存在すら知らないそうです。(存在は知っていても、自分たちとは関係ないと思っている)。

第二に、子ども食堂は公民館などの公の場で運営されていることが多い ですが、彼らはフォーマルな場で運営されるサードプレイスには出てこないと言います。大事なのは、フォーマルな場「セカンドプレイス(授業のある教室)」の近くにサードプレイスをつくることだ指摘されていました。

 

5000万人が経済的下流層となり、7人に1人の子どもが貧困家庭にある中で、NPOが真の貧困当事者にアプローチできなくなってきていて、NPOは今迷走しているというお話がありました。この20年間、NPOは社会課題解決の主な担い手として牽引してきましたが、今起きているNPOの迷走は10年は続くのではないかとのお話がありました。

これからは、ノブレス・オブリージュ(もっているものが、できる範囲で貢献する)など、堂々と学校に入っていけるフォーマル伝統的組織(青年会議所含め)が活躍する時代ではないだろうかという見解のようです。私は、それでも、NPOに期待してますが。 

 

 感想
「ひとり(孤独)が良い」というのは満たされて初めて感じられることだと感じた。
田中氏の「サードプレイスはポジティブな孤独を提供する空間」「自分を整えるための時空」というのも納得する。

今回のような経済的下流層のシングルマザーの話があると、母親の行動に非難があつまるが、田中さんが話していたように、彼女らも被害者でありサポートやサードプレイスを必要としている。しかしながら、その皺寄せが子どもたちに行ってしまっている現状は一刻もはやく解決しないといけないわけで、そのためには、NPOや伝統的組織(ノブレス・オブリージュ)と地域社会の連携が必要なのだと思う。

 

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 ※青年会議所の方とofficeドーナツトーク田中さんの記念写真

【読書ノート】加害者家族 (幻冬舎新書) 鈴木 伸元

NHKディレクター鈴木伸元氏による加害者家族へのインタビュー。

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

 

 

加害者家族を被害者の一人として捉えるという考え方は日本にはあまり無いように思う。しかしながら、日本の殺人事件の4割は家族殺人である。その場合、家族は被害者家族でもあり、加害者家族でもあるが、被害者家族のネットワークからは排除される。

 

身内の犯罪を未然に防ぐには限度があり、自分が加害者家族(身内)になったら?他人事ではない話である。

【読書ノート】卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

メンヘラ系ネットアイドルである著者の南条あやが、高校3年で自死するまでホームページに掲載していた公開日記(1998年~)の一部を掲載した本。

 

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

卒業式まで死にません―女子高生南条あやの日記 (新潮文庫)

 

 

彼女は父子家庭で育ち、本書も父親によって書籍化される。当時はメンヘラやネットアイドルという言葉は当然なかった時代だ。南条あやは、インターネット黎明期に新しいポジションを開拓していった1人である。

 

著者は小学生からいじめに遭い、自殺したいほど悩んでいるとわかってもらえれば、まわりも同情してくれるのではとリストカットをする。それが、その後繰り返されるリストカット・自殺未遂につながっていく。

 

日記からは、大量の薬への依存など状況の深刻さが窺えるが、文章はメンヘラ系ネットアイドル的な、明るくかわいく(という表現が適切ではないかもしれないが)書かれており、それが痛々しく感じる。

「自分で自分を抱っこできない彼女が自分で自分にしてあげられる最後のことが、それ以上の破滅から自分を救うためのクスリや自傷だったのかもしれません」(精神科医 かやま・りか)